地図 - ブランズウィック (ジョージア州) (Brunswick)

ブランズウィック (Brunswick)
ブランズウィック(、)は、アメリカ合衆国ジョージア州の南東部に位置するグリン郡に属する都市であり、同郡の郡庁所在地である. ジョージア州の大西洋岸ではサバンナ市に次いで2番目に大きな都市であり、地域の経済中心になっている. 市内にはブランズウィック・オールドタウン歴史地区がある. 2010年国勢調査での人口は15,383人であり、都市部人口では51,024人、ブランズウィック大都市圏人口は112,370人だった.

1738年、イギリス人開拓者がスペイン領フロリダに対する緩衝地帯として、半島に入植した. 1771年には植民地政府の支配下に入り、ハノーヴァー朝の出自であるドイツのブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国に因み、ブランズウィックと名付けられた. 1856年に市として法人化された. その歴史を通じて重要な港湾市として機能してきた. 第二次世界大戦では、戦略的な位置を生かして、アメリカ合衆国海事委員会のために護衛飛行船と造船施設の作戦基地として機能した.

ブランズウィックは都市圏の総生産高が39億ドルあり、観光業と物流業で成長する経済を支えている. ブランズウィック港はロールオン・ロールオフ貨物取扱量で国内の約10%を扱っており、ロサンゼルス港、ニューアーク港についで第3位である. 連邦政府警官訓練センターが市の中央事業地区の北5マイル (8 km) にあり、ブランズウィック=ゴールデンアイルズ空港に隣接している. この空港からは商業便が就航している.

ブランズウィックは大西洋岸の港であり、フロリダ州境の北約30マイル (50 km)、サウスカロライナ州境の南約70マイル (110 km) にある. 西はオグルソープ・ベイ、イースト川、タートル川に接している. 南はブランズウィック川であり、東は大西洋の沿岸内水路と接し、その向こうにゴールデンアイルズがある.

現在のブランズウィックとなっている地域には、ティムクア語を話すモカマ族インディアンが住んでいた. 1568年から、スペイン人がティムクアの村に伝道所を設立した. この時代、多くのインディアンが奴隷化や疫病のために人口を大きく減らした. 1663年にカロライナ植民地が設立され、イギリスは北緯31度線までの土地領有を主張したが 、スペインもこの土地の領有を主張していたので、アルタマハ川の南ではほとんど開拓が進まなかった. 1733年にジョージア植民地が設立されてから3年後、ジェイムズ・オグルソープがセントサイモンズ島にフレデリカの町を建設させ、やはりこの島の領有を主張していたスペインに挑戦した. 1742年、ブラッディマーシュの戦いとガリーホールクリークの戦いでイギリス軍が勝利した後は、スペイン人がこの植民地から追い出された. しかしスペインの脅威が無くなったのは1763年のパリ条約によってであり、セントメアリーズ川の北、サバンナ川の南がジョージアと指定された.

1738年、この地域最初のヨーロッパ人開拓者マーク・カーが到着した. スコットランド出身のカーは、オグルソープの海洋船会社の船長だった. 上陸すると、イースト川とブランズウィック川沿いに1,000エーカー (4.0 km2) のタバコ・プランテーションを設立し、「プラグ・ポイント」と呼んだ. 1771年、ジョージア植民地がカーの畑を買い上げ、サバンナ市と同様にブランズウィックの町に格子配置の区画割りを行った. 公共の広場にはそれなりの空間を持たせた. この町の名はイギリス王ジョージ3世とハノーヴァー朝の出自であるドイツのブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国に因み、ブランズウィックと名付けられた. 町の広さは383.5エーカー (1.552 km2) の四辺形だった. 1772年6月30日に最初の区画が払い下げられ、最初の3年間で179の区画が売れた. しかしこの時期に、ブランズウィック市民の多くが去っていった. その多くはロイヤリストであり、アメリカ独立戦争の間の保護を求めて、東フロリダ、カリブ海、さらにはイギリス本国に逃亡した. 1783年から1788年、町の多くの区画が再販売され、その子供達に適切な教育を望んだ幾つかの家族に集められることになった. 1788年2月1日付け州議会の法により、8人の町政委員が指名され、グリン・アカデミーが認可され、その資金は町の区画売り上げからもたらされた.

ブランズウィックは1789年にアメリカ合衆国議会の法によって公式の入国港として認められた. 1797年、州議会はグリン郡の郡庁所在地をフレデリカからブランズウィックに移した.

18世紀末、ブランズウィックの3方を取り囲む広大な土地が区画割りされて、コモンズと名付けられた. 1796年に町政委員が指名され町造りを担うことになった. 州議会が委員達にコモンズの土地500エーカー (2.0 km2) の販売を認めた. その利益の半分は郡庁舎と監獄の建設に充てられ、残り半分はアカデミーを支援することとされた. 1819年、町政委員はレイノルズ通りとL通りの南東角に、学校を目的とする快適な建物を建設した. これがブランズウィックでは最初の公共建築物になった. この建物は4年後に放棄されたが、1840年にコモンズのやり方によってヒルズボロ広場に新しい建物が建設された. 郡庁舎と監獄はこの頃に建てられた. 1856年2月22日、町は公式に市として法人化された. 1860年時点で、ブランズウィックの人口は468人、銀行1行、週刊新聞社1社、製材所1社、その従業員9人だった.

ブランズウィックは南北戦争の間に市民が明け渡しを命令されて、町が放棄された. 南部の他の町と同様に戦後は不況に苦しんだ. 近くのセントサイモンズ島で国内最大級の製材所が操業を始めた後、経済の活況が戻ってきた. ブランズウィックからジョージア州内陸部に鉄道が建設され、レコンストラクション時代の南部他都市とは異なり、経済ブームが起こった.

1878年、ジョージア生まれの詩人シドニー・レニアが、ブランズウィックの気候での結核療養に来ており、グリン郡全体にある塩沼に基づく詩『グリンの沼』を書いた. 「ハーパーズ・ウィークリー」1888年12月号では、「海の傍のブランズウィック」が「アメリカの冬のニューポート」となると予告された. ジェキル島は当時の最も影響力ある家族のリゾート地になった. その家族とはロックフェラー家、ヴァンダービルト家、ピューリッツァー家、グッドイヤー家などであり、列車やヨットでこの地に来ていた. 
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国 - アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の国旗
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、United States of America)は、北アメリカに位置し、大西洋および太平洋に面する連邦共和制国家. 首都はコロンビア特別区(ワシントンD.C.).

アメリカ合衆国(United States of America)の頭文字を取って「U.S.A.」もしくは「USA」、合衆国(United States)の頭文字を取って「U.S.」もしくは「US」、または単にアメリカ(America)とも称される.
通貨 / 言語  
ISO 通貨 シンボル 有効数字
USD アメリカ合衆国ドル (United States dollar) $ 2
ISO 言語
ES スペイン語 (Spanish language)
FR フランス語 (French language)
EN 英語 (English language)
Neighbourhood - 国  
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  •  メキシコ合衆国